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コロンブス

アメリカ大陸を発見した男

コロンブス

クリストファー・コロンブスとは、イタリアのジェノヴァで生まれた探検家・航海者であると言い伝えられているがその真相は定かではない。コロンブスについての生前や生涯には様々な目論が飛び交うが、航海の才能に秀でて柔軟な発想を持つ男だったという事は確かであった。
才能を活かし「新大陸発見」という栄光を掴んだ彼の生涯は、歴史が語るほど決して幸福なものではなかった・・・。

コロンブスの栄光と挫折

栄光への道のり

時は大航海時代。地球球体説に影響され、西へ西へ進み続ければアジアへと到達できると考えたコロンブスは、航海に出るためにスポンサーになってくれる人を探した。
しかし、当時「ホラ吹き野郎」と言われていたコロンブスに援助をする者は現れなかった。しかし、ただの一般市民だったコロンブスに転機が訪れた。1492年4月17日、スペインのイザベル女王と正式なスポンサーになる契約を交わした。

1492年8月3日、大西洋をインドを目指してパロス港を出航した。この時の編成はキャラベル船ニーニャ号とピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号の3隻で総乗組員数は約90人。

一旦、カナリア諸島へ寄り、大航海の準備を整えた後、一気に西進した。大西洋は極端に島の少ない大洋であり、船員の間には次第に不安が募っていった。当時の最新科学では地球が球体であるということはほぼ常識となっていたが、船員の間では地球を平面とする旧来の考えも根強く残っていた。

コロンブス自身は平気な振りをしていたが、コロンブスの計算を越えて長い航海となり、コロンブスも不安を感じるようになる。10月6日には小規模な暴動が起こり、3日後には船員の不安は頂点に達し、コロンブスに迫って「あと3日で陸地が見つからなかったら引き返す」と約束させた。

コロンブスの航路そして10月11日の日付が変わろうとする時、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島と名づける。(サン・サルバドルという名前には、「聖なる救世主」という意味がある。この名前は、上にあるように船内が荒れていた時に発見し、ほっとして思わず付けてしまったという説もある。)その後、いくつかの小さな島を見つけた後、現在のキューバ島を発見し、ここをフアナ島と名づけた。

その後、同船船長であるマルティン・アロンソ・ピンソンの独断によりピンタ号が一時離脱してしまうが、12月6日にはイスパニョーラ島を発見。24日にサンタ・マリア号が座礁してしまう。しかし、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。この入植地には50名の男が残った。

年が明け、1493年1月6日にピンタ号と再び合流する。1月16日、スペインへの帰還を命じ、3月15日にパロス港へ帰還した。

帰還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。コロンブスは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた。また陸地を発見した者には賞金が王夫婦から与えられるとされていたのだが、コロンブスは自分が先に発見したと言い張り、これをせしめている

栄光の破滅

同じ年の9月に17隻・1500人で出発した2度目の航海はその乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。11月にドミニカ島に到着したが、前回作った居留地に行ってみると現地人により破壊されており、残した人間は全て殺されていた(もっとも、その人間たちも現地人を虐殺し強姦したのであるが)。コロンブスはここを放棄して新しくイサベル植民地を築いた。

しかし植民の間では植民地での生活に不満が立ち上り、現地人の間でもヨーロッパ人の行為に対して怒りが重積していた。1495年に現地人との戦いに勝利した後、捕らえた現地人を奴隷として本国に送るが、イザベル女王はこれを送り返し、コロンブスの統治に対する調査委員を派遣した。驚いたコロンブスは慌てて本国へ戻って釈明し、罪は免れた。

1498年5月、6隻の船で3度目の航海に出る。今度は南よりの航路を取り、現在のベネズエラのオリノコ川の河口に上陸した。その膨大な量の河水が海水ではなく真水であったことから、それだけの大河を蓄えるのは大陸であるということをコロンブスは認めざるを得なかった。しかし彼は、最期まで自らが発見した島をアジアだと主張し続けたという。

その後、北上してサントドミンゴに着くと後を任せていた弟・バルトロメの統治の悪さから反乱が起きていた。コロンブスは説得を続けるが、入植者たちはこれを中々受け入れず、1500年8月に本国から来た査察官により逮捕され、本国へと送還された。罪に問われる事は免れたものの全ての地位を剥奪される

それでもコロンブスは4度目となる航海を企画するが、王からの援助は小型のボロ舟四隻というものであった。1502年に出航したが、イスパニョーラ島への寄港は禁じられており、パナマ周辺を6か月さまよったが、最後は難破して救助され、1504年11月にスペインへ戻った。しかし1504年末には彼に信頼を寄せていたイサベル女王が死去し、スペイン王室はコロンブスに対してさらに冷淡になった。

コロンブスの卵

コロンブスの卵

新大陸発見の式典で「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。造作も無いことだ」などとコロンブスの成功を妬む人々に対し、コロンブスは「誰かこの卵を机に立ててみて下さい」と言い、誰も出来なかった後でコロンブスは軽く卵の先を割ってから机に立てた。「そんな方法なら誰でも出来る」と言う人々に対し、コロンブスは「人のした後では造作もないことだ」と言い返した。

これが有名な「コロンブスの卵」の逸話であり、「誰でも出来る事でも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要」「逆転の発想」という意の故事で今日使われているが、逸話自体は後世の創作であるという説が一般的である。

不遇の運命

栄光の頂上から一気にどん底へ叩き落されたコロンブスは次第に自信を失くし萎縮していき、遂には怪しい宗教に妄信してしまう。
『自分の信じた道を突き進んだ勇敢な冒険家』
当時の人々からは白い目で見られていたが、コロンブスの名は歴史に刻まれ今もなお語り継がれている。まさに、全てを犠牲にして一つのものを手にした男の生き様である。しかし、発見した大陸がアジアではなく、新大陸だったという事をしばらくしてから気づいた所などはかなり抜けている。
実際かなり適当な性格であったらしく、たまたま新大陸発見してしまったのが事実だろう。
その時、コロンブスの人生の運は全て使い果たしてしまったのかもしれない・・・。

  • コロンブスの写真01右の写真の白黒版
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参考文献 : ウィキペディア フリー百科事典