卑弥呼
卑弥呼とは、日本の弥生時代後期における邪馬台国の女王である。魏志倭人伝によると、卑弥呼は鬼道(呪術)で衆を惑わしていたという。鬼道は今で言う占いのようなもので、当時は神の代行者として非常に畏怖されていた。卑弥呼は人前に顔を出すことは一切なく、宮殿の奥に引き篭り、1000人の侍女を従えている。
唯一男で出入りし、食事の受け渡しやお告げを伝達できたのは、卑弥呼の弟だけであった。その風貌は、当時にしてはやや長身で、雪のように真っ白なか細い手をしていた。目は切れ細く、全てを見透かしたような目をして、その振る舞いは、まさに神がかっていたという・・・。
邪馬台国について
時は一世紀、日本は100以上の小国同士がひたすら牽制をし合いしのぎを削る時代であった。やがて奴国と呼ばれる国が勢力を伸ばし、中国の後ろ楯を得ようと使者を送った。
それに対し、時の光武帝は、奴国を倭の代表国と認め、金印を送ったが、中国は三国に分裂(三国時代)し、そのあおりも受けて奴国も威光を失った。その後、再び日本は内乱状態が数十年間も続いてしまうのであった・・・。
そこに登場したのが、女王卑弥呼。
卑弥呼率いる邪馬台国は、怒涛の勢いで力をつけ、30余りあった国々を制覇していった。しかし、最後まで対立していた狗奴国(くなこく)だけは、強力な単一国家で制覇することが出来なかった。
当時の様子
当時の政治は占いによって万事が決められていた。
その方法は、動物の骨を焼き、そのひび割れ具合から、その年の収穫や祭事全般、さらには軍事戦略・戦術なども呪術で決定されていた。
骨が異常な割れ方をすると、飢饉や疫病、自然災害といった災難がやってくるという暗示であるようで、人々は見えない恐怖に脅えていたという。そして、山の神を沈めるため処女が生け贄にされ、奴隷が何十人も生き埋めにされた。
現代では考えられない事が、当時は日常的に行われていたのである・・・。
現代との違い・共通点
- 大人も子供も顔や体に入れ墨をしている。
- 服装はただの布切れ一枚。
- 大人子供、男女の区別がない。(部屋やトイレなど)
- 一夫多妻制(現代でもあるが、日本では理解されていない)
- 酒好き
- 礼儀正しい
邪馬台国は存在したのか?
実は、邪馬台国や卑弥呼の存在は、中国の魏志倭人伝に記述されていることで発見された。
日本にはそのような文献は一切残されていなかったので、それがなければ、卑弥呼を知ることはなかったといえる。しかし、その卑弥呼も本当に実在したのかという説が浮上している。
また、実際にいたとして、歴史上誰に当たるのかということだ。
こればかりは、情報がほとんどないため、推測の域で議論することしかできない。
しかし、卑弥呼は教科書にも載っているほど有名な歴史的偉人である。その謎に満ちた人物像から、人々のロマンを駆り立てているのかも知れない・・・。
空白の一世紀と呼ばれた、卑弥呼が生きた時代は何を物語っているのだろうか。
参考文献 : ウィキペディア フリー百科事典 http://members.jcom.home.ne.jp/invader/ 不思議館