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ロアノーク植民地集団失踪事件

最後に残された謎のメッセージ「CROATOAN」

ロアノーク植民地集団失踪事件

ロアノーク植民地は、16世紀後半にバージニア植民地内(※1)に恒久的開拓地を設立するために、1585年から幾度と植民地建設が試みられた殖民事業である。これを指揮していたのは、当時イングランド女王エリザベス1世からバージニアと呼ばれる北アメリカの地に植民地を建設する勅許を取得していた、『ウォルター・ローリー』という者である。
ローリーは、北アメリカの東海岸で適切な開拓地を探検するために遠征隊を派遣した。この遠征隊はフィリップ・アマダスとアーサー・バーローが指揮し、現在のノースカロライナ州アウターバンクスを選んだ。そこからは南に開拓地を持つスペインを襲うことができ、先住民族であるカロライナ・アルゴンキン族のクロアタン族と接触することもできる理想的な位置にあった。

※1) 現在はアメリカ合衆国ノースキャロライナ州デア郡に所属する。

第一の開拓

1585年、リチャード・グレンビル指揮のもと、この地域をさらに探検し、植民地を建設し、事業の成功の報せを持ってイングランドに戻る任務を割り当てられた。しかし、食料の欠乏などにより、グレンビルはラルフ・レーンと約75人の隊員を残してロアノーク島の北端に植民地を建設することを決断し、翌1586年4月にはさらに人と物資を運んで戻ってくることを約束し出航した。

翌年4月が過ぎてもグレンビルの救援隊がやってくる気配は無かった。
植民地は6月になっても存在しており、このときフランシス・ドレーク卿がカリブ海で襲撃を成功させた後の帰国中に立ち寄り、救助隊の来ない植民者達に共にイングランドに連れて行く提案を行った。金属学者のヨアヒム・ガンスを含む植民者達はこの申し出を受け入れ立ち去ったが、まもなくそれと入れ替わりでグレンビルの救援隊が到着した。植民地が放棄されているのを発見したグレンビルは、部隊の大半を連れてイングランドに戻ったが、イングランドの駐留と、ローリーのバージニアに対する権益の保護の双方を維持するために少数の分遣隊を残した。

第二の開拓

1587年、ローリーは新たに117人の植民者遠征隊を派遣した。この隊を指揮したジョン・ホワイトは芸術家でローリーの友人であり、先のロアノーク島への遠征にも同行していた。ホワイトは近隣にいるクロアタン族との関係を再構築し、前年ラルフ・レーンが攻撃した部族との関係を修復しようとしたが、不満を感じていた先住民に植民地の一人がカニを探している時に殺された。命の危険を感じたホワイトは、イングランドへ戻り植民地の事情を説明し援助を要請するように出航した。
115人の男女植民者を残して・・・。

ホワイトの航海は大変危険なものであった。やっとの思いでイングランドに戻り、早速救援隊の計画が立てられたが、冬季に船を出すことを船長が拒んだために遅れた。さらにスペインの無敵艦隊が来たことで、イングランドのあらゆる戦闘可能な船舶が徴発されたため、ホワイトはロアノーク島へ帰還するに耐え得る船舶を失った。しかし、ホワイトは防衛に不要と考えられる小さな船2隻を何とか誂え、1588年春にロアノーク島に向けて出航した。

しかし、またしても失敗に終わってしまう…。

2隻の船は小さくその船長たちは貪欲だった。彼らはその航海の収益を良くするために行きがけに幾隻かのスペイン船を捕獲しようとしたが、逆に彼らが捉えられて積荷が失われた。植民地に運ぶもののなくなった船長たちはイングランドに戻った。

スペインとの戦争が続いていた(英西戦争 (1585年))ために、ホワイトは再び補給を試みることができなかった。ようやく私掠船の遠征隊に乗って、カリブ海からの帰り道にロアノーク島沖に立ち寄る約束を取り付け、再びロアノーク島に上陸したのは、およそ3年もの月日が経っていた。

家族を残していたホワイトは、3年ぶりに家族や3歳になる娘に再会できる事をどんなに待ちわびていた事だろうか・・。期待に胸を膨らませたホワイトの眼下に広がった光景は、誰もいなくなった荒廃した開拓地であった
何者かが侵略して荒らしたような形跡はなく、戦闘が行われた兆候も無かった。
数少ない手がかりといえば、砦の柱に彫られた「クロアトアン(CROATOAN)」という言葉と、近くの木に彫り付けられた「クロ(CRO)」という言葉だった。
ホワイトは3年前に出発するとき、何か不測の事態が起こった場合、近くの木にマルタ十字を彫るよう指示していたが、約束の十字架が彫られていなかったため、ホワイトは彫られた文字は植民者達がクロアトアン島に移動したことを意味していると解釈した。
しかし、猛烈な嵐起こりつつあり、隊員はそれ以上の探索を拒み、翌日彼らはその地を離れてしまった…。故に、消失の確たる証拠が未だに解っていない。

ロアノーク植民地集団失踪事件2

事実と伝説の中の失われた植民地

1587年植民地の終末は記録されておらず(「失われた植民地」と呼ばれるようになった)、植民者達の運命については様々な憶測が生まれた。 また、この事はアメリカの大衆文化の中に少なからぬ影響を与え、多くの著書や記事がこれを主題に書かれてきた。

また、F・ロイ・ジョンソンの著作『事実と伝説の中の失われた植民地』で、共著者のトマス・C・パラモアは次のように書いている。

...1610年頃までタスカローラ族の国で失われた植民者達の一部が生きていたという証拠は印象的である。1608年にジェームズタウンの開拓者フランシス・ネルソンが描いた現在のノースカロライナ州内陸部の地図は、このことのもっとも雄弁な証拠である。いわゆる「ズニガ地図」[2]と呼ばれるこの図は、ニューズ川沿いイロコイ族のパケリウキニック集落で「ルーノックから来た4人の服を着た男たち」がまだ生きていることを報告している。1609年のロンドンでは、「ゲパノカン」と呼ばれる酋長の下で、明らかにパケリウキニック集落で生活しているロアノークから来たイングランド人に関する報告がある。ゲパノカンはロアノークから来た4人の男、2人の少年「および1人の若いメイド」(おそらくバージニア・デア)を銅の作業者として抱えていたと言われていた。

引用:著作『事実と伝説の中の失われた植民地』より

クロアトアン・プロジェクト

集団失踪事件から400年あまり経過した1998年、東カロライナ大学はロアノーク事件を考古学的に調査する「クロアトアン・プロジェクト」を組織化した。島に派遣された発掘調査チームは、昔のロアノーク植民地から50マイル (80 km) にある古代クロアトアン族首都があった地点で、16世紀の10カラット (42%) の金製印章指輪、銃の火打ち石、および16世紀の銅貨2枚を掘り出した。系譜学者は印章指輪に彫られたライオンのクレストで、ケンドールの紋章に行き着き、この指輪は1585年から1586年にロアノーク島にあったラルフ・レーンの植民地に住んだという記録があるマスター・ケンドールの所有物だったが可能性が強いと結論づけた。
もしこれが事実であれば、この指輪はロアノーク植民者とハッテラス島のインディアンの間の関係を結びつける初の物的証拠となる。

失われた植民地DNAプロジェクト

失われた植民地DNAプロジェクトとは、テキサス州ヒューストンのファミリーツリーDNA社の「ロアノークの失われた植民地DNAプロジェクト」によって現在遂行されている研究である。このプロジェクトは、失われた植民地の生存者が養子縁組あるいは奴隷化によって地元のインディアン部族に同化したかどうかをDNA型鑑定を使って実証することを目指している。これら種族の間にはかなりの比率で植民者の姓が存在している。さらにこの理論を裏付ける事実が発見されてきた。プロジェクトはできるだけ多くの子孫の所在を突き止め検証を行う予定である。これは発見された遺骸についても計画されている。

これらの研究が進み、理論を裏付ける確たる証拠が発見された際、ロアノーク集団失踪事件の真実が明らかになる日が来るのかもしれない…。

参考文献 : ウィキペディア フリー百科事典